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第20話

街をブラブラ歩いていると看板や商品など、色々なところで見つけることができる魔法陣・・

今回は、どのお宅にもあるであろう「家紋」についてお話したいと思います。

沼津図書館で家紋について調べてみたのですが、日本だけで241種5116紋以上あり、現時点で23000紋は確認されているようです。

「源平(げんぺい)藤(とう)橘(きつ)」というものがあります。これは、「源(げん)氏」「平(へい)氏」「藤原(ふじわら)氏」「橘(たちばな)氏」といった4つの氏族(しぞく)が勢力を伸ばしていた時代、他に移り住んだ氏族達が、同じ氏族と区別をするために、土地名や支配家を屋号とし、それらが名字となったようです。 家紋は紋章でもあり、名を表し、体を現しました。いくつも所有することは自由で、食器や家具、あらゆる自分達の所有物に着けられました。では何を使っても良かったのか?制限は無いようでしたが、他家の家紋を勝手に使うことは暗黙の了解で少なかったようです。将軍、大名が使用している家紋などはもってのほかでした・・忍者は戦術に、この辺りも利用したといいます。

平安時代や鎌倉時代では公家(くげ)を中心に、家紋は優雅さを表現する手段となりました。しかし、平安末期には源平の争いを皮切りに、戦国時代に突入していきます。すると当然、敵が誰なのか?見方は誰か?戦において識別がなされ、命のやり取り、子孫(しそん)繁栄(はんえい)にまで、視野に入れた家紋の重要性が生まれたのです。そして、顕示(けんじ)欲(よく)の強いであろう武士達の間で爆発的に必要性を帯びてきたのです。室町時代に入るころには、公家の多くは家紋を使用していることに意味を感じなくなっていました。理由として、武家のように戦う必要性がなく、手柄をあげ、誇示(こじ)することがなかったので、それほど重きを置かず、デザインのような感覚で楽しんでいたのでしょう。私生活において、あまり重要性はなかったようです。重点の違いが家紋存続に関わったと思われます。

伊豆半島で調べたのですが、なぜか平氏紋は寿司屋など自営業が多く、源氏紋はサラリーマン的要素が強い工場や大手企業に勤めている方が多かったです。

また、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパ圏で始まった美術運動「アール・ヌーボー」にも家紋は影響を与えたそうです。

最初に、魔法陣と言いました。なぜかと申しますと、家紋は家族単位から国家レベルまでの、過去からの集合意識が、良きにつけ悪しきにつけ、秘められた力が封印され、集約された象徴形(シンボライズ)なのです。家紋を開眼(意識込め)し、意識が向き始めた時から魔法陣が発動します。家紋が持っている波動が、意識した人を大局的(刻まれた道筋的事象)に導いていきます。では、その効果はいつまで継続するのか?日常、家紋に対して微塵(みじん)も意識が向いていないときは効果が続いていますが、それから再び意識したときが、効果の切れ時になります。それを応用させたものを、勝手に家紋遁(とん)甲(こう)と呼び、その日に赴(おもむ)く方位で、感じた家紋を護符のように身に着け、財布などに入れ反応を見てみました。

・顕在意識→潜在意識に浸透(この時効果継続中)→再び、顕在意識で意識したときに効果が切れる

色々な家紋がありますが、実験的に使用した例を挙げてみます。

丸に下り藤=万人的、無難な生活、全体としての一部感

沼津 障がい者 通所事業所 クローバー

鹿角(かづの)=プライド、攻撃的、一方的、感情的選択

東(ひがし)六条(ろくじょう)八つ藤=高尚(こうしょう)(上品)変化に富む、多角的対応

黒田女(おんな)紋(もん)=清楚(せいそ)感、厳粛(げんしゅく)、母性本能、女性感

多くの近藤家は、近江の藤原氏としての意味合いで近藤を名のり、藤原氏に近しい関係として近藤になった方が多いみたいです。やはり公家の流れを組む近藤と武家の流れを組む近藤では、使用している家紋もだいぶ異なるようです。ちなみに我が家の家紋は、天然(てんねん)理(り)心流(しんりゅう)の創始者「近藤内蔵之(こんどうくらの)助(すけ)」が使用し、新選組局長「近藤勇」が墓石に刻んだ定紋(じょうもん)「丸の内に三つ引き」です。家紋はまだまだ謎に包まれています。その全貌(ぜんぼう)を明らかにしたとき、我々日本人の魂が持つ「本質」が解き明かされるのではないでしょうか?魂自体には光も闇もなく、それを色づけているのは思考や感情であり、家紋は、自分と高次元の意識を繋げる紋章として創造されているのです。

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