☆コンドウさんの神秘なお話 第四十九話☆
人類の肉体を創造したアヌンナキ、そこに知恵を組み込んだクババ、知恵や言葉を持つがゆえに苦しみが増えた人類。はたしてアヌンナキとクババはどのような関係なのでしょうか?
以前、卑弥呼が「日巫女」と呼ばれた霊能者集団だったという都市伝説的な考えもありますが、聖書の大本になっている「アヌンナキ」とは「上から下へ降る者」という意味になります。学名的視点からアヌンナキと呼びますが、この種族の中の力をもつ集団の中に、下半身が蛇で人間に知恵を与えようとした「エンキ」とそれを良く思わない「エンリル」という兄弟がいました。やがてその二人が星々を巻き込む戦争を起こしました。エンリルは大洪水を利用し人類を絶滅に追い込もうとします。しかしエンキはある人物に箱舟を作りなさいと知恵を与えました。その者こそ大洪水の中心人物「ノア」です。その後、エンキとエンリルは幾度となく戦争を繰り返しました。結果、人類に知恵を与えずに統治しようとしたエンリルが勝利しました。
今回は「巧妙に仕掛けられた知恵を引き起こすメカニズム」と称し、前回までの「知恵の神クババ」について、理性の派生部分にあたる「集中と執着」の作用についてお話していきたいと思います。
「集中と執着」ですが、その使い方を理解すれば様々なシーンで活用できます。神秘学的にいうと「錬金術の黄金錬成の扉」にあたります。
「集中と執着」の根元(質)は同じです。「集中」には俯瞰性もありマイナス感情に支配されていませんが「執着」は、ほぼマイナス感情になります。共通して言える大事なことは、両者とも「意識がこわばる」ことで肉体や精神に極度の負担をかけることです。「集中も執着」も質が同じなので、外部(社会等)で起こる事象が違っても関係なくソレを実行していきます。外部で何が起ころうが内部には関係なく、ソレを「質として実行」します。また、思考で「集中」と「執着」として分別させようが感情作用もあいまって内部のエネルギーではまったく同じ現象が展開されています。
さて、上記のソレとは何かと申しますと、ズバリ「僥倖運」を指しており変性意識と深くつながっています。「集中や執着」が持つ「意識のこわばり」は異常状態であり、交感神経がフル活動しています。
ここで例を挙げて説明しますが、ここにAさんとBさんがいます。
Aさん=「諸行無常」を認識しているので切り替えが早く「執着」が少ない。「集中」が継続する。
Bさん=「諸行無常」を知識では理解しているが認識していないので「執着」が起こりやすい。
本来「集中」も「執着」も人間にとって不自然なエネルギーなので、本能的に対峙することを避けています。「集中」は意識に気づきを与え成長を促し「知恵」の創造に不可欠なのです。さらにインスピレーションを呼び起こし、「愛」「力」「勇気」を躍動させます。※諸行無常=森羅万象は常に変化し、一定ではないこと
「執着」が重症化すると病を引き起こします。社会では「集中」と「執着」が巧みに入り乱れ、これを上手にコントロールできないと人間関係に支障がでます。厄介なことは同じ質のエネルギーのはずが、社会において人間関係などの外部変化を通じて多様に変化してしまうことです。「集中」から「執着」に切り替わるのは瞬間的であり逆もしかりです。上昇していたら下降していたという感じです。だから意識を柔らかく保つ必要性があるのです。外の事象に惑わされてはいけません。固定化されておらず、その場に応じた対処が必要になるのはそのためです。
結論として・・
「集中」は人類に「知恵」という力に気づかせ超人化するために「エンキ」が仕掛け、「執着」は神の力に触れることを良しと思わない「エンリル」が仕掛けた罠として存在しています。「進展と腐敗」の文字が脳裏をかすめますが、どちらが良いのか悪いのかということではありません。あなたは電源をONにしたときに、そのスイッチを押し続けますか?この勢力を見張る第三者的匂いがしますね。肉体から意識(魂)が抜けたときに、その意識体を「中立的に見張るもう一人の自分」が語ります・・「二つは一つ」だと・・。
クババの追及はいったん終えたいと思いますが、また別の角度から深奥の森に踏み込んでいきたいと思います。